【将棋】棋力と勉強とスタイル

第二回は将棋の内容に関する話。


20代 ~ネット将棋始めた頃/初段~三段~

若い頃は超早指しの攻め将棋でした。
ともかく頭の回転が早かった頃で、相手の指した手に対する反射神経もよく、相手が指すと一秒以内に返していました。
将棋としても攻めに偏重していて、駒のただ捨てなんていう派手な手も大好きで、派手な手ばかりを探して攻めていました。
自分でも、ノータイムで手が見えるし、攻めも鋭い(自称)し、俺って強いなと思っていました。


しかしこれは、私が弱いからこそのスタイルでした。
私が手が見えてないからこそノータイムで指していたというのが実際の中身でした。


これについてはまた今後の自分語りでない方の記事でもっと詳しく話そうと思います。


?代 ~受け将棋/四段~五段~

ここからはあえて年齢をぼかしますがまあ20代でないことは明白ですね(笑)


弱い人を相手にしているうちは前述のスタイルでも気持ちよく勝てました。
大して考えもせずにポンポン指して、しかも受けの手を考えずに好きな攻めの手だけ考えて勝利の快楽を得られるならとても効率の良い娯楽です。
が、強い人とあたるようになり、このスタイルだと全然勝てないことが分かりました。


そこで、受けの練習をするようになりました。
基本的には「自陣は無視して攻め倒して勝てるなら攻める方を選ぶ」というスタンスの私でしたが、逆に「受けることで差が広げられるなら攻めても勝てる局面でも受けて勝て」というちょっと特殊な訓練?をしました。
これについてもまた別記事で詳細は書こうと思います。


そこで受けの技術を身に着けた結果、無理攻めに頼らないで、無理な時はじっと相手の手を消して待つ、自分単独では攻めきれない時に相手に手を渡して攻めてもらうことで反動を利用して勝つ、などの指し方ができるようになりました。


結果、今はむしろコテコテの受け将棋になりました(笑)
同時に棋力も四~五段まで上がりました。


昔と今の比較

昔の自分と今の自分の棋力を比較する際にいつも使う言葉があります。


「昔の自分と対局したら全局切らして勝てる」


昔の自分の弱さと、今の自分がどう強くなったかを一言で示す言葉です。


スタイル1

それとは別に、私の将棋は基本「駒得将棋」だと思います。
中盤で駒得を重ねて優位にして勝つ、中押し勝ちスタイルです。
私は終盤力がかなり弱く、恐らく同棋力帯の中では突出してそこが弱点です。
よって強力な終盤力により華麗に寄せて勝つ、というやり方はできません。
そのため私の終盤は、中盤時点で駒得を重ね、これだけあれば誰がやっても寄るよねって状況にしてそのまま寄せるような終盤になってます。


私の自作の迷言があります。
「詰ますのは嫌い。だっていっぱい駒捨てて駒損するから」(笑)


スタイル2

あともう一つのスタイルとして。
自分のスタイルを表すのに〇〇流という言葉を使うことがありますが、私が自分を示す時に使うのが「土下座流」です(笑)
普通将棋を指してると謝りたくない、相手の言い分を通したくない、自分の手の方を通したい、と考えると思いますが、私は結構「こんな謝り方をするのか。こんな明らかに手の交換として損になるのに相手して受けるのか」という指し方をします。
なんとか我慢して我慢して一気に負けてしまわないようにする、それが私のスタイル。
もちろん土下座しなくても勝てる場合は土下座しませんが、土下座しなくても勝てる手を自分が見つけられていない(実際にあるかは別)場合にそれでも土下座は嫌だ! 我慢は嫌い!とせずに冷静に?土下座するのは良くも悪くも私の特徴です。
私が天才ならそうしませんが、私という凡才の人間を持ってきた時は、勝率を上げる指し方ではあると思う。


勉強法

私がこの棋力になるにあたってしてきた勉強、ですが、回答はこうなります。


「勉強」をしたことがない。


――とだけ書くと独学だけでこんなに強くなりましたって自慢かよって見えますがそういう意味ではありません。
定跡書も読みました。プロの将棋も見ました。
しかしそれらは趣味としてやっていただけで、勝つため、強くなるための「勉強」としてやっていたわけではないんですね。



私はプロの将棋が好きです。
人間の勝負として、勝負事として見ていて楽しいし、また指し手に芸術性があるから。


同じく定跡が好きです。プロが何十人も何十年もかけて築き上げてきた芸術作品がそこにあるから。


私がプロ将棋を見て、定跡書を読むのはそこに芸術性を感じるからです。

余談ですが、そのため私はソフト将棋には一切興味がありません。
また、最近elmo囲いの定跡書を読んで再確認できたのですが、その定跡書はあくまでソフトで調べました、ソフトの評価値がどうでしたという形でしか書かれていないのですが、それを見ても他の定跡書を読んでる時のような芸術性を一切感じませんでした。


逆に私は詰将棋が嫌いです。
同じく次の一手も嫌いです。
なぜならそれはその手が成立するように人工的に作られた局面だからです。
詰将棋や次の一手で華麗に飛車をただ捨てする手がでてきたとしても、「あーはいはいそう作ったのね」と感じるだけで全く芸術性を感じません。
よって嫌いなのでこれらの本は全く読みません。



つまり私はやりたいこと、好きなことだけをやってきて、結果としてこの棋力になったんですね。



私はいつも自分を「観る将」だと81の友人に言っています。
今でも指すより見るほうが好きです。(自分の将棋は下手すぎて芸術性のかけらもないので嫌いです)
そしてプロの将棋や定跡書は、それを見てるだけでアマ四~五段になれるんですね。
好きなことだけやってても、アマ四~五段にはなれる。私がその事例です。



まあ詰将棋をやってこなかったことが今の終盤の弱さ、詰まし力のなさに繋がってはいますが、それはまた別の話(笑)